衣服の材料

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絹とは、蚕(カイコ)の繭(まゆ)からとった繊維をいいます。カイコはカイコガ(鱗翅目=りんしもく・カイコガ科)の幼虫です。孵化(ふか)したては、黒くて小さいが、のちに白い芋虫(約体長7cm)となります。桑(くわ)の葉だけを食べ、4回脱皮(だっぴ)を繰り返したのちに、繭を作り蛹(さなぎ)となります。育つ時期により、春蚕・夏蚕・秋蚕と呼ばれます。この繭から、生糸(きいと)をとるのです。

当置賜地方において絹織物は、米沢市・長井市・白鷹町などで生産されています。

米沢織=米織=よねおりは、時代をさかのぼり1598年、直江山城守兼続(かねつぐ)が米沢城主となり、織物産業の開発に着目し長井地区において、絹織物を製造し紬(つむぎ)を成功させ、技術の開発をおこなったことから始まります。その後1767年、上杉家十代鷹山公が藩政を受け継ぎ、桑・漆(うるし)・楮(こうぞ)の100万本植立政策を行い、小千谷縮(おじやちぢみ)師を招いて、下級士族の妻女に技術を伝習して織物業の基礎を固めました。こうして絹地産出の下地が整う中、1798年上杉藩は養蚕(ようさん)奨励の令を出し農民の副業として発達し、米沢城下では絹織物製造が家内工業として発展し、米沢織りが生み出され、さまざまな創織を生み出しながら現在に至っております。

なお、繭を生産している家庭の中には、昭和二十年代ごろまでは、自家製の絹織物を作っている家もありました。生繭をカマドで煮て、何個かの繭の糸を撚(よ)り合わせ適当な糸にしてから(撚りあげは商売人に頼むこともあった。)織機(しょっき)にあげて白地を織り、染物屋に染めてもらってから、着物を作りました。

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ぜんまいわた

ゼンマイ科 ゼンマイ

ぜんまいわたは、ゼンマイの若芽を守るようにからみ付いている薄茶色の綿毛(わたげ)のことです。自給自足の山村において、綿の増量のために、保温・防水を付与するために、綿に混ぜて糸や布として用いられていました。ぜんまい1本から採れる綿毛の量はわずか0.1〜0.3g位です。ぜんまいわたは、繊維長が短く、太さにむらがありますが、撚りや比重が綿と似ていて抱合性(ほうごうせい)もあり、綿と混紡されて糸や布として用いられたようです。さらに、ぜんまいわたは、脂ろう質が多く撥水(はっすい)作用が大きい特徴もあります。 昔の人々は、このような性質を活かして、ぜんまいわたを綿に撚り込んだ糸を横糸に、綿糸を縦糸に用いて織ったぜんまい織で、雨ガッパなどを作り着用していました。

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青苧(あおそ)

イラクサ科 カラムシ

青苧は、お盆の頃に刈り取り2〜3日間水に浸した後で表皮をはいだり、また釜で蒸して表皮をはぎ取りました。はぎ取った皮の表皮をさらに刃物で削り取ると白い繊維になり、粗糸を織って、麻布や蚊帳などが作られてきました。

青苧=カラムシは、地下茎でふえる多年草であり、皮の繊維がきわめて丈夫であるという特長を持ち、栽培に適したものと思われます。

置賜地方(昔の下長井荒砥地方、北条郷が主産地)の青苧は、米沢苧と称され慶長末年作成の古文書「邑鑑=むらかがみ」には既に栽培が記されており、元禄期に上方市場で「奈良晒」の原料として隆盛をきわめ、米沢藩の専売品としての藩の買い上げが幕末まで続きました。

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木綿(もめん)

木綿とはワタ(=アオイ科ワタ属、日本では主にインドワタの変種)の種子に付着している繊維を採取・加工したもので、弾力性・保温性・吸湿性に富んでおり衣料品におおく用いられてきました。

置賜地方においても、大正時代の初期頃までは、家庭によっては自家製の反物として機織り(はたおり)も行われました。織る木綿糸は反物屋(たんものや)から買い求め、適当な太さに撚(よ)りあげてもらい、そのあとで自家製の胡桃・キワダの煮出し染料で染めて、色止めとして塩や酢を使って木綿糸を染めました。これを水洗いして乾燥後、枠で巻き返してから機(はた)を織りました。

時代が進むにつれて、行商の呉服屋さんが持ってくる反物が、品質もよく種類も多い(木綿の縞物(しまもの)・絣(かすり)・晒(さらし)・ネルなど)ことから、次第に自家製の反物はなくなりました。

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藁(わら)

おもに稲(や、麦)の茎を干したものを、ワラと言います。ワラは、軟らかいが強靭で、通気性・耐水性・保温性に富み、加工し易く、しかも身近に多量にあって、安価で、始末する時には焼却できて、そのうえ焼却した灰も利用できました。そのような生活に便利な特性が、人々の暮らしと深く結びつき衣食住の各方面で利用されました。それにとどまらず、育児・信仰にもおよんで、ワラシ(童)・ワラワラ(急いで)などの方言も生まれました。昭和初期頃までは、わらがなくては生活ができないくらいでした。でも今では、主に民芸品・工芸品としてのわらの利用にとどまるようになってきました。

人々が生活の中でワラをどのように利用してきたかを少しだけ見てみたいと思います。

衣生活

冬の履物=わらで編んで作った甚兵衛(じんべえ)・深靴(ふかぐつ)→足袋のままこれを履くと、足が冷たいので中にクタダ(=わらの、はかま)や藁を敷いたり、赤唐辛子をつま先に入れて、暖をとりました。

履物=わらで編んで作った草履(ぞうり)で、素草鞋(すわらじ)・おそふき→山仕事の時に、わらで特別に編んだものをわらじのつま先からかぶせるようにして、見を守る工夫の結果生み出されたのが、おそふきです。

食生活

卵苞(たまごつと)・納豆の藁苞(わらづと)などは、わらを編んだり束ねてその中に食品を入れて包み、進物・贈物とするために食品の保護や保存の役目をしました。

昔のお米の入れ物には、わら製品が使われました。自然の温度や湿度、積み重ねの貯蔵をはじめ、運搬上からも考えられたもので、米俵(こめだわら)・叺(かます)があります。米俵は、わらで菰(こも)と、たらばしを作り、縄を使って巧みに組み合わせ表装して、四斗(よんと)を一俵としました。また叺は、むしろで作られました。これらのこも・むしろ・たらばし・なわなどは、農家の冬仕事として作られました。

また、いっけん利用価値のないような稲の刈り株も、移植ができない作物の苗床に用い、発芽後に刈り株ごと移植することで、間引きを節約できました。このように人々は、米・わら・刈り株・わら灰と稲という作物の持つすべての特性を、出来る限り有効活用しました。

住生活

・ 藁葺き屋根・藁すさ(=わらや古縄を刻んだもので、壁土の補強剤として亀裂を 防ぐのに使われました。)
・ 藁筵(わらむしろ=わらで編んだむしろ)
・ 藁座(わらざ=わらで渦巻状の円形に編んだ平たい敷物。円座)
・ 藁縄(わらなわ=わらをなって作った縄)
・ 藁薦(わらごも=わらで編んだ目の粗いむしろ)
・ 藁囲(わらがこい=防寒のため庭木などにわらで囲いをすること)
・ 藁紙(わらがみ=わらの繊維で作った粗質の和紙)
・ 藁箒(わらぼうき=わらを束ねて作った箒)
・ 藁半紙(わらばんし=わらの繊維〔現在では多くは木材パルプ〕を、三叉(みつ また)や楮(こうぞ)の繊維に混ぜてすいた粗末な半紙。ざらがみ。)
・ 藁筆(わらふで=打って柔らかくしたわらしべで作った粗末な筆)

などと、くらしの奥深くまでワラは使われていました。

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